メンバーの想い、ストーリー、夢を綴っていきます。彼ら、彼女らの声に耳を傾けていただければ幸いです。順次アップしていく予定です。ご期待下さい!

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◇鈴木剛

ジェネシスのエースでリーダー格の鈴木剛。

今年39歳となった彼のその笑顔はとても優しい。しかし高校時代の彼はと言えば、そこそこの「ワル」だった。ここでは詳しく書けないが、そう、尾崎豊が唄う世界を生きていたのだ。高校も2年生になると立派な「走り屋」に。毎晩毎晩、朝の5時までバイクで走り回っていた。その日も、友達のバイクの後ろを走っていた。もう帰ろう。じゃぁあと一回だけ。

そんな会話を交わした後、友達は珍しく先に行ってくれと言った。

坂道を下る。カーブを曲がる。その時だった。

 

彼は言う。

「見たらあかんと言うのは分かっていたんですが、友達のことが気になって、後ろをパッと振り返ってしまったんです」。

バイクはそのとき時速120キロは出ていた。彼が、一瞬振り返っただけでバイクの制御が効かなくなった。バイクは大きく外に振られ、そして飛んだ。彼は地面に強かに打ち付けられた。

気がつくと、友達は必死に叫んでいた。

背骨が前に突き出し、肺に突き刺さっていた。何とか一命はとりとめたものの代わりに彼の足はその時から動かなくなっていた。

彼は当時をこう振り返る。「ギブスを巻いていたわけではないのですよ。足がそこにあるのに動かない。動かそうとしても全く動かない。信じられなかった。頭の中が真っ白になってしまいました」

度は気がつくと病院の屋上の上にいた。

ここから飛び降りたら死ねると思った。

しかし、この足では屋上を囲むフェンスが乗り越えられない。飛び降りることも出来なかった。彼は結局死ねなかった。

そうした時に鈴木の父は彼に向かってこう言った。「お前の第2の人生はこれからや。他人よりも可能性がいっぱいあるんや」と。

鈴木は思った。

「可能性などどこにあるねん」

しかし、それから6年後。彼は車いすダンスに出会う。鈴木は変わった。車いすダンスに文字通りのめりこんでいった。そして数々の国内大会で優勝、世界選手権でも上位に入るなど車いすダンスの第一人者となった。

鈴木は言う。「ダンスに出会い、色々な人たちに支えられて今の僕がいる。また、ダンスに出会ったからこそ、僕は今輝くことが出来ている。普通では会えない人にも会えた。知事にも会えた。文部科学大臣からも表彰された。事故に遭ったからこそかもしれない。確かに父が言うように、僕の第2の人生がそこから始まったのかもしれない。様々な可能性が本当にあったのだと思う」

鈴木は来年40歳。世界選手権に再び挑む。彼の可能性は尽きることはない。そして、それは誰だって同じことだ。生きている限り、可能性など尽きることはないのだから。(BY KUNI61)

◇島崎享美

車いすダンスを見てくれた人が言う一番嬉しい褒め言葉は?

この質問に彼女はこう答えた。

「ごめん!と言われたのが嬉しかった」

ごめん、と言われて嬉しい?それはどう言うこと?重ねて訊いた。

「ごめん!正直、車いすの人が踊るのを介助するただのボランティアやと思っていた。なめてたわ!こんな凄いとは思わへんかった。そう言われた時が一番嬉しかった」

島崎亨美・33歳。彼女は健常者。立って踊る側だ。車いすダンスをやっていると言うと多くの人はこう思う。障がいのある人を手伝っている。障がいのある人がメインだと。しかし、島崎は毎回それを打ち消さねばならない。「私たちは違う。一緒に踊っているのだ」と。

けれど、なかなか理解されない。もっと稚拙なダンスを想像している人も多い。そこで、実際にジェネシスの車いすダンスを見ると、

ごめん!なめていたと言う言葉に繋がる。

鍵は「一緒に」と言うこと。

それは障がい者と健常者がただ一緒に舞台上にいると言う意味ではない。より良きダンスを見せよう、より良きイベントにしよと言う一つの目標に、障がい者と健常者がともに向かっていくことだ。ともに主役でともにサポーター。

例えば障がい者スポーツでは車いすの選手がヒーローやヒロインになることも多い。確かにそこにも健常者のサポートがあるだろう。しかし、それはあくまでフィールドの外からのサポート。また障がい者が主役で健常者がサポーターの図式。けれどここは違う。障がい者と健常者が同じ舞台に立ち、ともに戦い、ともに支え合っている。

彼女は言う。「障がい者だからと言う変な気遣いなどここにはない」と。

車いすダンスに出会うまでの彼女は言いたいことも言えない子だった。いや、と言うか、ああしたい、こうしたいと言う部分が弱かったと彼女は自己分析をする。高校に入って将来は助産師になりたいと言う夢を持つ。しかし両親にその思いを伝えることが出来ず、結局は進路を変更した。多分親からは“いい子”に見えていただろう。けれど、彼女はそれを未だに後悔している。

それが車いすダンスに出会い変わった。ただ相手に合わせて踊っているだけならダンスは決して綺麗には見えない。ともに支え、ともに引っ張り合わないとダンスは美しくならないのだ。そのためには彼女の方からも「こうしたい」「ああしたい」と言わねばならない。パートナーとは常に対等だ。彼女は言う。「自分と向き合い、自分が思うことを伝える大切さを学んだ」と。彼女はそれを評して「人生が濃くなった」と言う。「車いすダンスに出会うまでの私はフニャフニャだった」とも言った。

では、今は?と水を向けると「今は・・・図々しいです!」彼女はそう言うと大いに笑った。彼女の笑顔からは大いに自信が溢れていた。(BY KUNI61)

 

◇林佐恵

「とんでもないところに来た」

それが彼女の車いすダンスを初めて体験した時の感想。

林佐恵40歳。「私は友達に誘われ、練習風景を見学しに行っただけ。それが急に踊れなんて。初めて会った人と手を繋いで目を見つめ合って、しかも音楽に合わせて踊るんですよ」

そう言われれば確かにそうだ。そう言われると確かに恥ずかしい。子どもならいざ知らず、林はその時33歳。もう十分大人。それだけに恥ずかしさが募った。

「私、半分逃げるように帰ったんです」それはそうだろう。

そこまでは分かる。しかし、ここからが分からない。今度は発表会を見に来ないかと誘われた。発表会ならば踊らされることはないだろうと彼女は再び出掛けた。そこで彼女は“魔法”にかかる。「舞台の皆は本当に楽しそうで、キラキラしていた。自分もやりたいと思ったんです。確かにあれだけ恥ずかしかったのに、どうして急展開したのかな?」そしてその発表会が終わり、改めて声を掛けられた。「一緒にやろうよ」と。そこで彼女は即答した。「やります!」と。まさに魔法だ。

林は、小学校4年生から車いす生活を余儀なくされた。原因は・・・不明。

ただ左足が小学校に入るあたりから内側に捻れ、4年生になった頃には歩くことが困難となり、移動手段は車いすになった。その時を彼女はこう振り返る。「初めて車いすの乗った時には凄い抵抗感がありましたね。恥ずかしくて。これに乗って外に出やなあかんのかって」

30年前、確かに車いすを町で見かけることは少なかった。それだけに好奇の目で見られたに違いない。彼女は続けた。「タクシーの乗車拒否も多かった。電車だって、かつては駅員さんも手伝ってくれなかった。そこで通りすがりの人にスイマセンと声をかけて、でも素通りする人のほうが多くて。ズッと声を掛け続けていました」

でも、彼女は負けなかった。好奇の目にも耐えた。就職もした。ダイビングにだって挑戦した。海外旅行にも何度も行った。将来は乗馬にも挑戦してみたい、スキーもしてみたい、和太鼓も習ってみたい。

彼女の興味は尽きない。彼女は言う「時代は変わった」と。

彼女に訊いた。若き車いす仲間にアドバイスをするとしたらどんな声を掛けますか?彼女は答えた。「そんなに気にしないでって。車椅子に乗っていてもそう悪いことばかりじゃない。気にするなといわれても無理かもしれないけれど気にするな!」と。彼女は笑った。

そしてその笑顔を畳んだ後こう続けた。「何でもちょっとやってみようと言いたい。外に出るのが嫌でも出てみたら違った世界が開ける。多分これまで色々な人たちが外に出た結果、街を変え、私たちもそれなりに不便を感じることが少なくなったんじゃないかな。そんな先輩たちがいたからこそ、今があるんじゃないかな」と。

ボクは言った。「貴女もその先輩の一人ですよね」。彼女は答えた。「そうした先輩に私もなりたい」と。彼女はキュッと口元を引き締めた。いい表情だと思った。(By KUNI61)

◇池尾美佳

「私が障害のある人全員とうまくやっていけるかと言うと、決してそうではありません。好き嫌いもあります」

彼女はキッパリそう言った。多分、至極当然。しかしなかなか人前でそうはっきりとは言えない。彼女は続けた。

「喧嘩もします。最近いつ喧嘩したか?もう覚えきれないほどしています」そしてさらにこうも続けた。「障害のある人と一緒に活動していると“いい人”に見られます。そう見られることで、私も優越感を感じているかもしれません。それが無いと言ったら嘘になると思います」これまた彼女はキッパリそう言った。

池尾美佳、25歳。車いすダンスを始めてもう13年になる。しかし彼女はこうも続けた。「けれど、その優越感が私のダンスの原動力になっている訳ではありません」と。

実は彼女は高校2年生のときに不登校になる。クラス替えを境に女の子同士のグループの中でうまくやっていけなくなったのだ。学校に足が向かない。重役出勤。校門に到着しても保健室に一直線。なかなか教室にたどり着けない。しかし、ここジェネシスは違った。普通に行けた。学校に行けなくてもここには来られた。

ここには様々な人がいる。同世代の人もズッと年上の人も。歩ける人も、車いすの人も。病気と闘っている人も、後遺症に苦しんでいる人も。けれど彼女は自然に皆と付き合えた。彼女にとってここは“特別な場所”となった。彼女は言う。「家のようだ」と。そんな彼女には、車いすの人たちと接する際のルールがある。まず「出来ることは手伝わない」。車いすの利用者でも押してあげないと動けない人もいれば、自分で漕げる人もいる。自分で漕げる人を彼女は決して手伝わない。2番目のルールは「得意なところは頼る」。車いすの人でもパソコンに強い人、車の運転が上手い人もいる。そうした得意なところは遠慮なく頼る。そして最後のルールは「特別扱いしない」と言うことだ。彼女は言った。「特別扱いなどしません。したら、一緒にいられなくなる」と。そうなのだ。この場所は彼女にとっては「家」。ならばメンバーは彼女にとって「家族」にほかならない。家族に特別扱いなど不要。皆が支え、そして支えられているのだ。 そんな彼女にこんな質問をしてみた。「ダンス中、パートナーに腹の立つことはないのか?」と。

彼女は答えた。「足を踏まれたりすることもしょっちゅうです。それも結構痛い。電動車いすに踏まれると最高に痛いですよ」。けれど彼女の顔は笑っていた。

そしてとっておきの情報としてこんな話をしてくれた。

「車いすメンバーと映画に行くと、1000円で映画が見られるんですよ。二人で2000円。ラッキーって感じですよね」彼女は弾けるように笑った。彼女は楽しいのだ。メンバーと一緒にいることが嬉しいのだ。それが彼女のダンスに打ち込む原動力になっているに違いない。(By KUNI61)

◇安藤広二

「中学生の時に赤信号の交差点に目をつむって飛び込んでことがある」。そう話すのは安藤広二・38歳。メンバーの中では最古参の一人。今でこそ笑顔の多い明るい安藤だが、中学時代には自殺を考え、そして実際実行もしたのだ。原因はいじめ。ただ、幸いにして車たちはクラクションを激しく鳴らしながらも安藤の乗る車いすの横を間一髪ですり抜け、あるいはすんでのところで止まった。安藤は交差点を渡りきり、結局自殺は未遂に終わった。その時の心境をこう語る。「当時は辛いことばかりやった。いじめられていることを親に言えないし、先生に言っても仕方ない。先生に言うとただエスカレートするだけ。耐えるだけ。だから、もうええわと」

安藤は3歳の時から車いす生活を余儀なくされている。脊椎骨が形成不全を起こす二分脊椎症と言う病気で下半身が麻痺しているからだ。小学生時代には車いす用トイレの扉を蹴って開けられたことなど何度もある。トイレの上から水をかけられたこともある。さらに階段の上から落とされたこともある。中学時代には流石に肉体的なイジメはなくなったものの無視をされ続けてきた。「自分だけなんでやろ?何故回りから責められなければならないんやろ?なんで分かってくれへんねんやろ?」と彼は自分の世界に閉じこもるしかなかった。けれど彼は死ねなかった。死にはしなかった。中学を卒業後、養護学校高等部に入る。ここで、自分以外にも多くの障がい者がいることを知る。さらに自分より重い障がいのある人と接するようになるにしたがい彼は変わりつつあった。そして23歳の時に車いすダンスと出会う。「皆、楽しそうだな」と思った。しかし依然人と接するのが苦手で、特に女性と手を繋ぐなんて出来ないと安藤は会場の隅っこにいた。けれどメンバーに「踊ってみない?」と手をひかれて会場の真ん中に引っ張り出され踊らされた。車いすの操作には自信のあった安藤はクルクルと回ることが出来た。安藤は言う。「風が気持ち良かった。車いすが回ることによって起こる風が気持ち良かった」と。安藤はその場で車いすダンスの虜になった。

そしてそれから15年。彼は今も第一線の車いすダンサーだ。

さらに、メンバーの中ではムードメーカーでもあり、後輩たちからの相談にも耳傾ける良き兄貴分でもある。「僕が過去自殺を考えるほどの根暗だったなんて、誰も知らないんじゃないかな」と彼は話す。 しかし、そんな彼にも不満がある。「舞台が終わって褒められることはいつも“笑顔が良かったよ”、と言うこと。ダンスの技術でなく、まず一番に笑顔!技術も褒められたいのに」と、彼は大きな身体を揺すってまた飛び切りの笑顔を見せてくれた。

爽やかな風が吹いているように感じた。(BY KUNI61)。

◇蛭池千尋

2010年ドイツで開催された車いすダンススポーツ世界選手権大会。彼女はそこにいた。蛭池千尋。当時はまだ22歳。パートナーは高校2年生の時から組む鈴木剛だ。彼女らは体格に勝る海外勢にも怯むことなくラテン部門クラスⅡにおいて世界8位の成績を収め、アジアチャンピオンの意地を見せた。彼女は言う。「日本を出て世界で自分の実力を試せるチャンスなどなかなかない。車いすダンスとの出会いは私にとっては、本当にありがたいものだった」と。

彼女がこの車いすダンスに出会ったのは中学1年生の時。きっかけはボランティア体験イベント。そこで車いすダンスを見て面白そうと思ったから。さらに競技会を観戦しては「私もいけるんちゃうかな」と思ったから。どちらも軽い気持ちから。しかし実際はそれほど甘くはなかった。初の競技会では3組中3位。ここで基礎の必要性を痛感し、大学に入って初めて社交ダンスの教室の扉を鈴木とともに叩くことになる。確かに、車いすダンサーとのペアでは立って踊る側は目線が下がり、踊りが小さくなってしまう。またペアが腕を組む際には車いす側のダンサーは車輪を回すことができず、動きが止まってしまう。

しかし、だからと言って、車いすダンスの魅力が健常者同士のダンスに比べて見劣りするものではないと蛭池は言う。「車いすならではスピード感がある。さらに滑らかで繊細なタイヤワークも見せることが出来る」と。ただ、こうも続けた。「相手の身体を知ることは心がけている。何処が使えて、何処が使いにくいのか。何処に力が入りやすくて、何処に力が入りにくいのか。それによりリードの仕方やポジションも変わるから」と。そこで彼女に訊いた。「では車いすダンスでは健常者側がリーダーなのか?」彼女はこう答えた。「パートナーとは対等。車いすダンスの成否は、パートナーといかに対等な関係をいかに築けるかだ」と。

そんな彼女も中学時代を思い出してこう話す。

「それまで車いすの人と喋ったことはなかった。また学校にも障がいのある生徒もいたが正直関わりたくもなかった。失礼な言い方かもしれないが、対等に会話なんか出来ないと思っていた。それが今は普通に喋っている。車いすダンスを通じてそうした人間関係が全国に広がればいいなと思う」

蛭池は既に決めている。競技人生は来年の世界選手権までと。

しかし、最後にこんな話もしてくれた。「これまでに幾つもメダルを貰った。しかしどれもそんなに重たいメダルじゃなかった。車いすダンス界にはお金がないから(笑)。もっと重厚なメダルを出してもらいたい。そのためにはこの車いすダンスの魅力をシッカリ世の中に伝えていかねばならない。それが、これからの私の使命だ」と。

そう言う彼女は本当に美しく輝いていた。(BY KUNI61)

◇田村みくり

確かに彼女の指の爪は豆粒のように小さかった。田村みくり、それが彼女の名前。「エリスファンクレフェルト症候群」それが彼女の病名だ。遺伝子の異常から起こる骨の病気。6万人から20万人に一人と言う超難病。身長が低く、四肢が短く、爪が小さい。そして骨がどんどん変形をしていくのだ。でも彼女の場合は幼稚園まで友達と一緒に走り回ることが出来た。それが小学校の入学式の当日、彼女の足に突然激痛が走り、もう立っていられなくなった。彼女は言う「膝のあたりを棒のような物でギリギリギリと押されているような感じだった」と。

 

その後、足の手術のため10ヶ月にも及ぶ入院を2回余儀なくされた。それ以降は車いすの生活だ。彼女は当然この病気を恨んだ。「なんで、私だけ」と。

そんな彼女に小学校3年生の時転機が訪れた。車いすダンスに出会ったのだ。

「凄いなとは思った。でも私には出来ないと思った」それが彼女の第一印象。 けれど母親は熱心に勧めた。最初は気乗りはしなかったが彼女だが、4年生の時に初めて舞台に立ってそれが変わった。「皆に見てもらって、楽しかった。今までにない感覚を味わうことが出来たんです」彼女はさらにこう続ける。「私、この車いすダンスに出会えなかったら、多分引きこもりになっていたと思う。外に出るきっかけもないし、仕事も出来なかったと思う。前向きになれなかったと思うから。でも、車いすでも色々と出来ることを知って、私は変わったのです」彼女はそう言って胸を張った。しかし、実は今でも彼女は痛み止めが手放せない。激痛がいつ襲ってくるか分からないからだ。病気とはこれからもズッと付き合っていかねばならない。そんな彼女に今後の夢を聞いてみた。

「車いすダンスで世界選手権に出てみたい」

2011年に彼女は全日本車いすダンススポーツ選手権大会東京グランプリラテン部門のデュオスタイルで優勝と言う経験を持つ実力派ダンサーだ。しかし、世界での経験はない。いつかは世界で闘いたいと夢見る。けれど夢はそれだけではない。彼女はこう続ける。「同じ病気の人のために何か出来ることをしたいのです。私、同じ病気の人にまだ会ったことはありません。でも、繋がってみたい。そして、そうした人たちをサポート出来るボランティアのようなことが出来たらいいなと思っているのです」と。

彼女に思わずこう言った。「それは君の使命かもしれないね」と。彼女はキッパリこう答えた。ハイ! そんな彼女の指の爪は豆粒のように小さかった。しかし、とても愛らしかった。そして何より彼女の指は常に未来を指していた。(BY KUNI61)

◇林 美穂

「バァーと弾けたい子だけど、それが人前では出来ない。人見知りです」

そう自己分析をするのは林美穂・24歳。チーム内の「おしゃれ番長」だ。

衣装選びから、得意のパソコンのスキルを活かして宣伝用のチラシ作りを担当する。全日本車いすダンススポーツ選手権大会東京グランプリでラテン部門デュオスタイルにおいて3度の優勝経験を持つ実力派だ。

彼女が初めて車いすに乗ったのは3歳の時。

生後6カ月の時に小児ガンの摘出手術を受けた。抗がん剤治療の効果もあってガンは完治したものの下半身に障害が残った。

ベビーカーを降りてからはズッと車いす生活。彼女に訊いた。「辛くないか?特に思春期においては辛くはなかったか?」と。

彼女はこう答えた。

「小さい時からすぎて分からない。走ったこともないので走ると言うことが楽しいと言う感覚も分からない。だから羨ましいとも思わない。確かに健常者の友達を見ていていいなと思うときはあるけど、思っていてもしょうがないかなと。思春期のときには『もう嫌やな』と思わなくもなかったけれど、寝ておきたら、まぁええやと」

彼女はそう言って微笑んだ。

彼女が車いすダンスに出会ったのは、小学4年の時。そこで講演をしていたのが鈴木剛だ。その鈴木と高校を卒業後大阪市職業リハビリテーションセンターで再会し、誘われた。「最初は簡単だと思ってた。しかし、やってみると全然違った」

ここで、林の“負けず嫌い”に火が付いた。林は実は大変な負けず嫌いなのである。高校時代、体育でマラソンの授業、林は当然見学だった。そんな彼女に体育教師は言った。「ちょっと走ってみる?皆は10周走っているけど10周は多いから走れるだけいいよ?」と。この言葉に火が付いた。彼女は言う。

「カチン!と来た。それぐらい出来るわと。そこで車いすで10周走り切った。『無理やんな?』と言われたらやりたくなるんです」それは今も変わっていない。

職場で車いすなのは彼女ただ一人。

当初は「これは頼んでも無理だろうな」と気遣われている雰囲気があったと言う。

しかし、棚の上のものも難なく取れるし、走り回ることも出来る。

今では「何やこの子、大丈夫なんやと皆に思われていると思う」と胸を張る。

今後、林はチェアースキーにも挑戦したいと言う。もちろん私生活も充実させたい。30歳台では結婚もしてみたいと願う。好きな男性のタイプを訊いてみた。

「マッチョはいや。ヘロヘロもだめ。おとなしい人もダメかな」

なかなかハードルは高そうだ。

最後にこうも訊いてみた。「根性があるねと、お洒落だね。どっちを言われたい?」

彼女は即答した。「お洒落です!」

そりゃそうか。 (BY KUNI61)

                                                                              

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